Conversation about the kingdom of fire

Ideas NOT worth spreading、お前の悪口、そしてお前の肉親の悪口

再掲:罪、犯罪、ブラウニング

 Q:人間はなんで、罪深いんですか!?

 

 A:"人間は罪深い"という前提は、本当に充分に検証済み、なのかな……。

 

 "crime"と"sin"って区別がありますよね。前者は一般的に"犯罪"、後者は"罪業"とかそういう感じに訳されると思います。これは"人が人に対して犯した罪"と"人が神に対して犯した罪"という風に噛み砕くことが出来そうです。

 

 旧約聖書読んでると"人愚痴る→神殺す"という単調なスラップスティックが延々続き、ほとんどエンジンのピストン運動を見ているようなグルーヴが醸し出されてきて、気持ちよさが増してくるのですが(実際、あれはマジでぶっ飛ぶぜ……)、ユダヤ教のラビ達は言います。"神に対する罪は神の赦しに属する。しかし神と言えど人が人に対して犯した罪は取り消せない"と。

 

 ブラウニングの一節を引きます。"神は天にいまし、なべて世はこともなし"ってアレです。

 

 a. "God's in HIS heaven. All's right with the world."
 b. "God's in OUR heaven. All's right with the world."

 

 大文字で強調したところに注意して下さい。正しいのはaの方です。bの方は比較対象として私がえっちなことを考えながら適当に書いたものです。何故"HIS heaven"であって"OUR heaven"ではないのでしょう。"今日も世界は問題なくて、神様ありがとうの歌"なのであれば、bの方が自然なように思われます。護られてる感が御座います。

 

 でもそのようには書かれていない。神がいるのは"彼の天"であり、"我々の天"ではない。そうであるならば、上記一節が指し示している内容は"神様ありがとうの歌"ではない。そう推論するのが妥当です。先ほどのユダヤ教のラビの言葉を思い出すと、そこには奇妙に共鳴するものがあります。こうです。

 

 "神に対する罪"は片付いちゃいました(そもそもあいつ、マッチポンプ的なところ、あるしね)。もう一つの罪はどうでしょう。内田樹の<センチネル>、カミュの<シジフォス>、村上春樹の<ぼく>、レヴィナス叔父さまの<女性的なるもの>、ドストエフスキーの<アリョーシャ>、チャンドラーの<フィリップ・マーロウ>などなど。これらの系譜は"人が人に対して犯した罪"を贖う係の系譜ではないかと考えています。

 

 ブラウニングの詩は"神様ありがとうの歌"ではなく"贖い係頑張ろうの歌"ではないでしょうか。人が人に対して歌った詩で"なべて世はこともなくしましたね、わたしたち、頑張りましたね"って内容だと考えると、自然に呑み込めるのでは。他の節も並べていくともっと明瞭なんですが、ちょっと面倒ですので次に進みましょう。

 

 人間が例外なく全的に罪深い、という前提はどうやら怪しそうです。では贖う係がいて、他方、いつ何時も邪悪な人間がおり、ほとんど 1 + 1 = 2のファンクションよろしく決まって罪を犯している、という仮説はどうでしょう? それはリアリティを持つでしょうか? そのような機械的な存在を<邪悪>と呼べるでしょうか?

 

 邪悪な人間であっても、何故か嬰児を打つでなく撫でることを選びとってしまうことも、あるように思われます。何かの入力があればすなわちそれを害する、という自動的在り様は、端的に人間ではありません。嬰児を撫でることを選びとるのと同じプライオリティと頻度でもって邪悪を選び取るからこそ、真に邪悪な"人間"と呼べるのではないでしょうか。

 

 核心に近付いてきました。喜んで下さい。"人間は時間的空間的に例外なく罪深い"という前提はどうやらなんだか怪しいもののようです。そうであるならば"何故人間は罪深いか"という問いは"論点先取の虚偽"を犯しており、その問いの立て方は誤謬だと言わねばなりませんが、私のバビロンの大いなる娼婦の炎の扉の如く開いた傷口は叫ぶのです。

 

 "お前ら私に対して犯した罪はどうなったんだよ"と。"虐待された子どもの涙は、とりわけ私の涙は、誰が贖うのか。誰が、虐待された子どもの涙の優先度をちょっとだけ下げて、私の涙のほうを贖うのか"と。率直に申し上げて、罪深いのは吾を容れぬ世界なのですが、<世界内存在>として人間もそれに内包されるため、お前ら全員時間的空間的例外なく超罪深いです。

 

 だから私は今日も絶対に許しません。