納豆の食べ方論争
例の手や脇腹に穴の開いた間抜けも稀に正気のことを言うこともあるようで、"人はパンのみにて生きるに非ず"。私は今回納豆とごはんについて話をしたい。
私が考える美味しい納豆ごはんは下記のような段取りで作る。
- 米を研ぐ
- ごはんを炊く
- 生卵を割る
- 炊き上がったごはんに生卵を乗せ、撹拌する
- 納豆をかき混ぜる
- かき混ぜた納豆を卵ごはんに乗せる
- 納豆卵ごはんに醤油、ごま油を垂らす
- 軽く混ぜた後、一味、或いは山椒、或いはその両方を振る
- 仕上げに軽く混ぜる
4と5、6の工程が逆になると納豆の糸と卵が絡み空気を含んでふがふがになるのでこの手順を諸賢は守るべきだ。私は納豆と卵、ごはんは同じ主題を扱いつつ独立し、ポリフォニック(多声的)であるべきだと考えるからだ。一方、佳人は敢えて納豆を先に投入して"ふわふわふかふか(肯定的なニュアンスがある)"にするとのこと。岡山の文化ではそれが正統だと主張している。諸賢の流儀はどちらでしょうか(そんなの誰が気にするってんだ?)。
結論としては前述の間抜けの卓抜した比喩とやらは食べ物と海関係がやたらと多く、何て言うか"いくら愚かなこいつらでも食い物の話なら少しは分かるだろ"ぐらいの厭な印象を受ける。海関係は間抜けの生まれの都合、或いはマチズモも発露だと思われる。どのみち、碌な人間ではない。