Conversation about the kingdom of fire

Ideas NOT worth spreading、お前の悪口、そしてお前の肉親の悪口

『アメリカンスナイパー』について上、或いは予習としてのニーチェとラグビー

 私はクリント・イーストウッドに詳しくない。そもそも映画自体詳しくないが、先賢がクリント・イーストウッドについて"定食屋に入ったら強面のおっさんが白米だけをゴンと出して来て、客が美味い美味いと頬張るような、そういう映画を撮る人"と称していて、結構腑に落ちるところがある。ここでニーチェにご登場願おう(佐々木中経由で)。

 

 いつかこの世界に変革をもたらす人間がやって来るだろう。その人間にも迷いの夜があろう。その夜に、ふと開いた本の一行の微かな助けによって、変革が可能になるかもしれない。その夜の、その一冊の、その一行で、革命が可能になるかも知れない。ならば、われわれがやっていることは無意味ではないのだ。絶対に無意味ではない。その極小の、しかしゼロには絶対にならない可能性に賭け続けること。それがわれわれ文献学者の誇りであり、戦いである。

   『切り取れ、あの祈る手を』 p.206

 

 

 クリント・イーストウッドの『インビクタス/負けざる者たち』はそのまんま上記引用のような物語だった。詩がある人間の不屈の魂に火を灯し、それが波及していき、革命が成就する物語だ。こういう言い方が正しいのかよく分からないが、彼は人間の身体について獰猛な信仰と揺るぎない信頼をおいているように思える。

 

 例えばモーガン・フリーマンの睨み付ける目。例えば荒い呼気、肉と骨のぶつかり合う音が描写の殆どであるラグビーの試合のシーンなど。"風景は風景だから美しく残酷で、人間は人間だから不屈であり美しいのだ"とサラリと言ってのけるようなところがある。白米だけをひたすら美味しくいただく感じ、というのはこういうことなのかな、と思う。

 

 そのような人が撮った戦争映画であるところの『アメリカンスナイパー』を観に行った。詳しい感想は次回に記する。緊迫したシーンが続く中、酷い息苦しさを覚えた。これは私が緊張していたからだけではなく、劇場の酸素が薄くなっていたからだ。隣の人が私と同じタイミングで息を呑み、喘いだのがその証左だ。私たちは作品に呼吸までコントロールされるような、そのような恐ろしい場所にいた。

 

 朦朧とした頭で会場を出る際、殆ど無言だった観客一同の中で女性が一言、"辛かった……"と漏らしていた。その通りだった。